#187 稀代の作詞家!阿久悠氏!との思わぬ接点?に驚愕する!
偉大な作詞家阿久悠氏は、時代を先取りし”性は未だ戯れるには余りにも熱く、うっとうしいほど重かった時代、性を密室に閉じ込めるのをやめはじめていた”とフランス文学者は云われる。
我々を、”夢のような現実離れした別世界”に抵抗無く、誘(いざな)って呉れたあの阿久悠さんが亡くなられて、もう既に一ヶ月半を過ぎた。8月3日の日本経済新聞文化欄で、フランス文学者の山田登世子 さんが ”阿久悠氏を悼む”と言う題で随筆を載せられていた。
流石にフランス文学者の、感性深い洞察力で、余す事無く、作詞家としての阿久悠氏の偉業を讃えられていた。大衆を虚に遊ばせた色々なジャンルの世界を、歌謡曲と言う短い詩一つで、我々の唇に、最高のご馳走として投げてよこされたと。
昭和の、いや戦後の歌謡史の中でも、”夢を与えてくれた、良質のエッセンスが網羅された類、稀な歌謡曲群”、ではなかったかと、”感性にはやや疎い”と自認しているおじんでさえ思うのである。玉石混交ではなくて、全てが真珠のような?素晴らしさでは無かったかと。。
何故、突然、この様な事を話題に取り上げて!と言われるかも知れないので、お時間を。。
昨日、会社の先輩から、久し振りに、季節のご挨拶を頂いた。今回は、暑中お見舞いを兼ねた、近況のお知らせメールである。以下そのメールを紹介します。
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おじん様。。。
今年の夏は堪えましたね。お達者ですか?相変らずですよね、ね、、。
昨日、久し振りに、所用があり、本社を訪問した所、昭和43年頃?から、開店していた本社前の喫茶店”シバフ”が閉店しておりました。聞く所よると、マスターも歳で、止めたとの事でした。新オーナーのビルが建つとの事。但し経営会議と株主総会は手伝う?との噂でした。
又昭和45,6年当時、時々本社エレベーターの中で見かけた、宣広社(コピーライター)で
勤務されていた阿久悠さんも、先日亡くなられ、当時の歌(白い蝶のサンバ)を思い出した次第です。唯、味芳斎は、相変らず繁盛、味は変わらず。昭和の大門筋も少々寂しくなりましたね では、お達者で。
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この様な暑中お見舞いのEmailを貰ったので早速返事のメールを。。。。
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OOO先輩様
相変わらずお元気に過されておられますね。宣広社で阿久悠さんが仕事をされておられた事、全く知りませんでした。素晴らしい歌詞を作られた偉大な作詞家さんと、ある時期、同じビルディングに勤務していたとは、嬉しい限りです。本当に東京の空の下。。同じビルの中で。。
大門近くに、長崎チャンポンリンガーハット店が開店したそうですね。今度本社に行った時、長崎チャンポンでも食べたいと思っています。そして、チャンポン本場の長崎出身者の、辛口の講評を、米濱さんにして差し上げたいと思っています。 それでは又お頼り致します。
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この様なメールを、先輩から頂き、ふと、強烈な印象で心に残っていた、阿久悠さんの事が思い出された。本社のビルで勤務していた時期、九階のビルの三階に在ったおじんの経理の職場から、階段ではなく、わざわざエレベーターを利用していたものだ。一階のエレベーター脇には、”元気な体は脚から?階段を使おう”のキャッチフレーズがあったのに。。。
先輩が、Emailで書かれていた昭和45,6年は、おじん入社後4,5年の頃だ。其の頃、9階建てのビルの五階に宣広社と言う会社があり、当社とは全く違った雰囲気の、男性、女性が出入りされてた覚えがある。ビル全体は当社の所有で、テナントとして宣広社が入っていた。
場所は、港区の芝大門にある、非常に静かで、便利なロケーションだ。喫茶店”芝生”は会社の道を隔てた真正面。其の頃、若い美人のママさんと、やせたハンサムなご主人が、喫茶店を始められたばかりの頃だ。その二階が雀荘”三六”で、耳の遠いオジサンが店主でした。
会社で大人数の会議があれば必ず、出前で”芝生”のコーヒーを取り寄せていた。特に会社全体の、一月に一回の経営会議には、全国から幹部が百人以上集められた。朝の9時半頃から夕方遅くまで、実績計画検討があり、社長、会長から、愛のムチで叱咤激励されていた。
この様な時に、芝生の美人ママさんと、これまた会社の若い愛らしい受付嬢、総務課の女性陣が、総動員で会議場の各人の席迄、コーヒーの配達をして呉れていた。今は、会議場を出たロビーでの、セルフサービスではなかろうか?高度成長期の、古き良き時代?であった。。
其の頃、阿久悠さんが宣広社に勤務され、おじんの勤める会社のビルで乗り降りされていたそうだが。。。。。昔の事、故に、インターネットの資料で調べて見た。略歴は下記の通りだ。
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”阿久悠さんは、昭和34年に明治大学文学部卒業後、広告代理店の宣弘社に入社。広告マンと放送作家の二足のワラジを履くが、40年にフリーとなり、作詞を中心に小説、エッセーなどの執筆活動に入る。同年、ザ・スパイダースの「モンキー・ダンス」で作詞家デビューした。”
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おじんが本社に勤務していた時期は、43年から昭和48年の頃だか、阿久悠さんが、本社のエレベーターを乗り降りされていた頃は、既にフリーになられた後の頃だ。先輩が想い出しておられた、当時の歌(白い蝶のサンバ)とは歌手森山加代子の45年の発表作品である。
この様な昔の事を、先輩のEmailが発端で、つらつらと想い出している。
エレベーターで、同じ空気を吸ったかもしれない、あの偉大な作詞家阿久悠さんのご冥福を、心からお祈り致します。。。。。

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